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人の世に道は一つということはない 道は百も千も万もある(坂本龍馬)

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人の世に道は一つということはない 道は百も千も万もある(坂本龍馬

 

toyokeizai.net

2018年7月11日、文科省は、学校復帰のみにこだわった従来の不登校対応を見直すため、「学校復帰」という文言が含まれた過去の通知をすべて見直す方針を明らかにした。通知が見直されれば、不登校対応の新たな方針が、全小中高校へ示されることになる。

当記事は不登校新聞の提供記事です

文科省の「通知」とは、教育委員会を通してすべての小中高へ送付される行政文書のこと。「行政の意向」を現場に伝える手段となっている。これまで文科省は「学校復帰」の文言を含む通知を2003年から2016年8月にかけて4度、出していた。

その後、国会では不登校に関する初めての法律「教育機会確保法」が成立。2017年3月に策定された同法の基本指針では、同法とその付帯決議を根拠に「学校復帰のみ」にこだわらない新しい不登校対応が必要であることが明示された。なお、基本指針だけでなく新学習指導要領においても、新しい不登校対応の方針が示されている。

 

子育てや教育に対して思うのは、

その道はけして一つだけではないはずだということ。

 

過去、日本の経済成長を支えたのは

間違いなく、他の国にも負けなく

ある種の「”画一的”な教育システム」でした。

それは、皆が同じ教室で、同じ教科書を使って一斉に授業を聞き取るという仕組みです。

 

地域での義務教育を終えたその後は、

学力(ここでは偏差値)ごとに振り分けられて

高校・大学(その他、専門学校等)へ進学し、

その受験システムに適応できた人(学歴や学校名ごと)に

企業に振り分けられて行ったわけです。

 

このことを否定するつもりはありません。

しかし、いまこの画一的な教育システム(学校)が機能していないという

現状が問題視されているのが、不登校問題なのではないでしょうか。

 

不登校は、その児童生徒自身の問題ではなく、

ましては親だけの問題でもない。(中には養育困難な家庭もあることにはありますが)

一番は、時代の要求に適さなくなった学校側の問題であると考えています。

 

たとえば、

子どもに「どうして勉強しなくちゃいけないの?」

と問われた時に、

今の時代は「よい大学に行き、よい会社に入るため」とは返答できません。

 

「じゃあなんで、長時間座らされて、つまらない授業を聞くという苦行を強いられなきゃいけないの」というような、子どもたちの問いに、

彼らが納得できるような答えを示せる大人は少ないのではないでしょうか。

 

今の子どもたちは、

戦後の経済発展とはまったく違う、将来展望を自ら開拓しなければいけない世代なのだと思います。

 

彼らがワクワクするようなモノ・ゴトは、

これまでの日本の目指した経済発展とは違ったカタチ(豊かさ)なのだとすると、

これまで通りの教育では噛み合わないのも当然なのだと思います。

 

今は「画一」から「多様」への転換点なのでしょう。

 

多様な教育のあり方を認め、

多様な進路や仕事を開拓するために

子どもたちと一緒に考え、創り上げられる可能性を秘めた時代だとも

いうことができますね!

 

どこで学ぶかだけでなく、何をまなぶか、を大切に

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どこで学ぶかでだけでなく、何をまなぶか、を大切に

とある方が発せられていた言葉。

 

私たちは、

小学校から中学の義務教育を経て、

高校への進学や、人によっては大学や専門学校など

人生の前半の多くを「学ぶ」ことに費やしています。

 

そんな中で一旦立ち止まり「学び」の本質について考えて見たいと思わされる、

そんな言葉に出会いました。

 

この言葉の捉え方は、受け取る人により様々かと思いますが、

社会人の私にとって、「学び」は現在進行形の活動です。

 

そう、

もうすでに学校に行っていない私も、「学ぶ」ことはできます。

仕事に関することだけでなく、

家族関係に関すること、

政治・経済・世界など、広く社会に関することなどなど。

 

「学び」は、自分の視野を広げてくれます。

知識を得ることで、これまで見えていた風景が、また違ったものに変わります。

「学び」により、モノ・ゴトを相対化することができたとき、

自分や自分の立ち位置などが、改めてはっきりと、くっきりと、見えてくるのではないでしょうか。

 

そして、「学び」は学校の中にだけあるものではありません。

いつでも、どこででも「学ぶ」ことはできます。

 

大切なのは、どこで「学ぶ」かではなく、

なにを「学ぶ」のかなのだと、実感しています。

過激的なタイトルと同時に、内容はとても考えさせられました。「DV被害者になることが、子どもへの加害になる?(yahooニュースより)」

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「DV被害者になることが、子どもへの加害になる?(yahooニュースより)」

news.yahoo.co.jp

 

要約すると、DVに被害者は、同時に子どもへの面前DVを防げなかった、(養育能力の不足した)虐待加害者になってしまう、という内容です。

 

少し長いのですが、引用します。

はなえさんの場合は、タイミングが最悪でした。はなえさんは、夫の酷い暴力は子どものためにならないと考えて、なんとか離婚する計画を実行にうつしたところだったのです。夫がかかわっていた犯罪で有罪にするため、はなえさんは警察に協力し、警察の要請で普通に暮らしているふりをしていたところでした

そんなところに児童相談所が突然電話をかけてきたので、はなえさんは動転してしまいました。いま、児童相談所に踏み込まれたら、警察の計画が台無しになってしまう。焦ったはなえさんは、児童相談所の訪問をいらないといって電話を切ってしまったのです」。

それは面倒を呼び込みそうな気が、日本に住む私でもする。

「そうです。児童相談所は突然、はなえさんたちの家に押しかけてきました。そして、あまりの事態にびっくりしているはなえさんを、適切に『子どもを保護』することができない『無能な親』だとみなしました。はなえさんは気を取り直して、覆面捜査官に電話をして、児童相談所が連れてきた警察官(児童虐待班)に、DVがあることを含め、説明してもらいました。

しかし、児童相談所聞く耳をもたなかったのです。『はなえさんと子どもは、友人宅に逃げたほうがいい』と騙し、児童相談所の指示通りにはなえさんが電話をかけている隙に、子どもは攫うように連れ去られてしまいました」。

子どもは一時的に里親に養育されたが、「お母さんのもとへと帰りたい」と泣き叫び、5日後にははなえさんの元へと返された。しかし、いきなり大人に踏み込まれ、だまし討ちのようにお母さんと引き離され、知らない人のもとへと連れ去られ、お母さんにも会わせてもらえなかった経験は、何年も回復しない深刻なトラウマを植え付けてしまったのだという。そしてはなえさん自身も、なぜ児相に通報させたのかと、また夫から暴力を振るわれてしまった。

DV被害者は子どもへの加害者か?

「はなえさんは、実際にはDVの被害者なのですが、面前DVなどから『子どもを保護できなかった加害者』であるとみなされてしまっています。こういう問題が、アメリカでは深刻になっています」。

 

日本でも同様のことが起こっていると思います。

養育能力を疑われた親は、同時に虐待の加害者という眼差しを向けられます。

このことについては、さらに考えを深めていきたいものです。

私たちはどう生きる?(「仕事あり」の母 初めて7割を超える 厚労省調査 | NHKニュースより)

www3.nhk.or.jp

それによりますと、18歳未満の子どもがいる母親のうち、仕事をしている人の割合は70.8%と、前の年より3.6ポイント増加しました。

母親が仕事しているかどうかは平成16年から調査していますが、70%を超えたのは初めてです。

仕事をする母親の割合は子どもの年齢が高くなるにしたがって高くなる傾向にあり、0歳の子どもを育てる母親は42%だったのに対し12歳以上の子どもの母親は80%以上が仕事をしていました。(記事より)

 

 これを私たちはどう受け止める必要があるのでしょうか?

 

共働き家庭が増えること自体はまったく悪いことではなく

両親それぞれが自己実現のために、自分の人生を謳歌するために働けているということならば、

この事実はとても歓迎すべきことなんじゃないかな、と思うのです。

 

一方で、生活に苦慮しているが故に、

共働きじゃないとい生きていけないという理由ならば、

それぞれの家庭の責任とせず、

国としても、家庭を下支えするような方策が必要に思います。

 

私の実感としては、

子どもや子育て家庭の「貧困」が注目視されている昨今、

実態は、単に「格差」が広がり持つものと持たざるもので、

二極化しているだけのように感じます。

 

経済優先の資本主事社会の中で、

お金を持っている、モノを持っていることが、

その人の価値自体も決めてしまう。

持たざるものは、存在価値自体も危ぶまれてしまう

そんな感覚を持っている人もいるのではないでしょうか?

 

だから、他人と同じようなモノを欲しがるし、

同じような水準の生活を除むわけで。。。。

 

繰り返しになりますが、

自己実現や人生をさらに充実させるための働きならば、

それは歓迎すべきことです。

色々な労働観があるなか、お金稼ぎという側面だけでない(困窮していない)ことに、

親たちが目を向けられるような社会を望みます。