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子育てがうまくいっているうちは立派な親であるという「価値」を他者から承認されるけど・・・

『ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館)の著者である杉山春さんの記事に興味深いものがあったので引用させてもらいます。

記事の中に「女の生きる価値」という部分があります。

「離婚をして、母としての価値を失ってしまったと感じたときに、そうしたことが権利だとは思えない。彼女はもうひとつの自分の価値基準である、「かわいい」「モテる」という自分をアピールしていこうとしたのかもしれません。それで、SNSではオシャレをしてきれいにして、そういうかたちで自分に生きる価値があることを訴えていたのではないかと思います。」

 

この「生きる価値」を承認してほしいという感情

子育てがうまくいっているうちは、立派な親であるという「価値」を他者から承認されやすい。

でも、うまくいかないと「ダメな親」というようなレッテルを張られ

「価値」を失ってしまったような気持ちになることは想像できます。

そうしたときに、自分自身が「価値ある自分」を認められるのでしょうか?

 

他者に承認されたい欲求は誰にでもあります。

私に承認されたい「生きる価値」は、時代や年齢、環境によっても変動するものだろうと思います。

 

私だって、きつい現実からは、逃げたくなってしまうということはありますし、表現しやすい「自分の価値」をSNSで見せびらかし、「いいね!」と承認してもらいたい感情になることはあります。

 

当然、このことで子どもたちが死亡したことが許される訳ではありませんが、

この現状を理解しないで、虐待する親を一方的に批判することはできないと私は感じてしまいます。

彼ら・彼女らは確かに「加害者」ではあるが、「生きることに困窮する一人の人間」なのだと。

 

 

wotopi.jp

――芽衣さんは、結婚していた頃は、乳幼児健診や育児サークルの活動など公的な機関を積極的に利用し、周囲からは「若いのにしっかりしている」という評価もあったと『ルポ 虐待』にはあります。離婚後に公的な機関を利用しなかったのはなぜなのでしょう。

杉山:彼女が、自分の人としての価値をどこで捉えていたのかということと関係があると思います。芽衣さんは10代の頃から「早くママになりたい」という希望を持っていましたが、離婚して、母として失敗しているわけですよね。立派に子育てが出来ている間は、堂々と公的支援をつかうことができる。

しかし、母としての価値を失ってしまったと感じたときに、そうしたことが権利だとは思えない。彼女はもうひとつの自分の価値基準である、「かわいい」「モテる」という自分をアピールしていこうとしたのかもしれません。それで、SNSではオシャレをしてきれいにして、そういうかたちで自分に生きる価値があることを訴えていたのではないかと思います。

――公的な機関を利用して子どもたちを育てることより、SNSのなかで誰かから承認を得ることに「生きる価値」を見出したということなのでしょうか。それでもやはり、子どもを放置したことはなかなか説明がつかないように思います。

杉山:裁判では検察側の精神鑑定を精神科医が、弁護士側の心理鑑定を虐待に造詣の深い山梨県立大学の西澤哲氏が行いました。西澤氏は「娘と自分を重ね合わせている」とおっしゃいました。娘を直視することは、幼いころ放置されていた自分と向き合うこと。それができなかった。惨めな自分を受け入れられなかったと。

裁判で芽衣さんは、「幼い子どもたちの元に帰らなかったのは、2人が嫌だったのではなく、子どもたちの周囲に誰もいないというその状況が嫌だった」という内容の発言をしています。幼い頃、周囲に誰もいないまま放置されていた自分自身と向き合うことが出来なかったのだと思います。