「疎外感」と「無力ではない」ということの意味(映画「Codaあいのうた」を鑑賞)※ネタバレ注意
映画「Codaあいのうた」を鑑賞した。
■おおまかなストーリー
主人公のルビーは、ろう者の両親と兄といっしょに暮らしていた。
ルビーは家族の中で唯一耳が聞こえて、しゃべることができる存在として、家族と聴者(日本言ういわゆる「健常者」の意)の間にたち、幼き頃より通訳者として生きることを余儀なくされたいた。
ルビーは自分の予定があっても、家族を優先し、家族の通院時の通訳や、漁師としての仕事で聴者との交渉にも立ち会わなければいけないという、ヤングケアラーだった。
そんな彼女は歌が好きだった。
ハイスクールで、合唱クラブに入り、音楽の先生は彼女に可能性を見出し、大学入学を目指して個人レッスンをはじめる。しかし、ヤングケアラーである彼女は、家族の都合に振り回されて、レッスンを遅刻してしまうことが多く、家族が始めた事業において、通訳が必要などという複合的理由で、大学を諦めようとしていた。
■ろう者家族の葛藤(兄のレオ)
こうしてルビーが「自分の夢」と、「家族を支える役割」のなかで葛藤をする物語だが、
劇中では、ルビーの成長とともに、ろう者である家族も色々な葛藤があることが描かれていた。
今回はルビーのヤングケアラーとしての視点はいったん横に置きつつ、ろう者の家族の視点で文章を書いていきたい
兄レオもそのうちのひとり。
聴者と、漁で取れた魚の値段を交渉する場面があったが、耳の聞こえないレオは、すぐ横で同じような交渉をしている漁師よりも安い金額でたたかれていた。それに気づいた、ルビーはすかさず間に入って、「〇〇は3ドルだから、それ以下は認めない」と交渉に入る。
レオは、「俺が交渉中だったのに邪魔をするな」とルビーに怒る。こうしたシーンはたびたびあり、レオはとあるシーンでルビーに「家族が笑われたっていい。俺たちは無力じゃない」と叫ぶ。
家族のために良かれと思い介入するルビーの行動は、もしかしたらレオ(ろう者)に「あなたは無力よ」というメッセージとして届いてしまっていたのかもしれない。
私自身、このシーンを見て複雑な感情を得た。
また別のシーンでは、ルビーが出演する合唱祭にて、家族3名も応援しに会場にくるのだが、
周囲は音楽を楽しみ、笑顔になり、体をゆらす他の観客の様子に対して、音が聞こえない家族は、その無音の合唱時間をどのように過ごせばよいかわからずにいる。
■「聴こえない」なかでの疎外感
劇中で、コンサート中に、突然無音になる演出があった。
それは家族が感じる状況を、視聴者にも体感してもらうためのものだった。
そこで私は「疎外感」のようなものを感じた。
前述したように、周囲の人々は体を揺らしたり、手でリズムをとったりして楽しそうだ。でも自分は、その様子を真似して楽しんでいるフリをするしかない。
歌と歌の切れ目すらわからず、曲が終わった際の拍手のタイミングも、周りを見てなんとなくあわせるしかない。
■聴こえなくても、感じようとした父親
コンサートが終わって帰宅してから、父がルビーに手話で伝える。
「あの曲はどんな意味だったんだ。ここでもう一度俺のために歌ってくれないか」と。
先に手話で歌詞を教えてもらった後、歌い出すルビー。
その横にいた父は、両手をルビーの喉元にあてて、歌う際の喉の振動を確かめる。
コンサートでは体感できなかった、ルビーの歌(声)を、父は一生懸命に感じようとしていた。そしてそれは手を伝って伝わる。
■「俺たちは無力じゃない」(兄レオの言葉)
耳が聞こえない、目が見えない、手足の動きであったり、目には見えない内部にまつわる、色々な「障がい」がある。
障がいがあるがゆえに、
伝えたいことが伝えられない(伝えようとしているのに、伝わらない)
参加したいところに参加できない(移動など物理的な課題や、他者の拒否など)
社会的障壁が色々なところに散らばっている。
嫌だけど、差別だってある。
だけど私は、兄レオの言った言葉が忘れられない。
「俺たちは無力じゃない」
劇中では、レオや父母は、漁港で協同組合をつくり、事業を起こす。
誰もが同じようにはいかないだろうし、
偽善に聞こえるかもしれないけれど、
私たちは「無力ではない」と、この映画を通じて感じることができた。
そう、「無力ではない」