終戦の日に子どもたちと考えたい「平和」
日本は、広島・長崎と立て続けに原爆の被害を受け、8月15日に終戦を迎えました。
本日、8月15日は終戦記念日として、毎年各地で「平和」への祈りが捧げられています。
こんな日にあらためて考えたいのは
「戦争」と「平和」についてです。
日本は戦争によって多くの被害を受けました。
それと同時に、日清・日露戦争などで他国を占領し、
その土地の人々を殺してきたという加害者としての側面も持っています。
こうした両面をちゃんと子どもたちにともいっしょに考えたいと
あらためて考えています。
物事は何が、正義で何が悪なのかは、
その時々、また物事を捉える角度からまったく別のものになってしまいます。
月を見上げると、
あるところからは満月に見えても
あるところからは三日月かもしれません。
事実は見方によって異なります。
戦争にもそういった側面はあったのだとは思います。
ただし、戦地で、誰かが愛する人たちが死に、その人に関係する人が涙を流した事実は変わりません。
だから、戦争が「よかった」とは、
私は絶対に言えません。
戦争で人が死ぬことは、綺麗事では語れないのかもしれません。
でも、だからこそ、
戦争に至った歴史と加害性、被害性の両面について、子どもたちともしっかりと向き合いたいと、そう思っています。
核抑止力の本質とは?子どもたちと幸せな暮らしについて考えたい。
では、核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば、このようなものではないでしょうか。
「いいかい、うちとお隣さんは仲が悪いけど、もし何かあれば、お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって、そのボタンはいつでも押せるようになってるし、お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い、いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし、うちもお隣に失礼はしない。決して大げんかにはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし、誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ」
一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。(記事より)
【韓国の画期的な住宅支援】韓国・文大統領が夫婦・若者のものすごい住居支援対策を発表!「これからは国が負担を分かち合う」
これはすごい施作ですね。
ぜひ、日本でも導入してほしいです!
【裏山鹿】韓国・文大統領が夫婦・若者のものすごい住居支援対策を発表!「これからは国が負担を分かち合う」
文大統領「国も負担を分かち合う」 新婚夫婦・若者の住居対策を発表
幸福住宅は新婚夫婦や若者世代のための公共賃貸住宅で、周辺相場80%以下程度の賃貸料で6年間居住することができ、若者が結婚したり新婚夫婦が2人の子どもを出産したりした場合、最長10年居住することができる。この席で文大統領は新婚夫婦や若者など合計163万世帯に対する住居支援策を提示した。今後5年間、最大88万組の新婚夫婦に対し公共住宅の提供や資金援助などの支援を行い、2022年には住居支援が必要な「結婚7年以内」の夫婦を100%支援する計画だと明らかにした。
文大統領は「国民の生活において住居がとても大きい負担になっている。特に若者や新婚夫婦は新しい生活を始めるための基本的な住居を得るのも大変だ」と話した。
また「これまで自分の家を持つために個人やその家族がとても大きい荷を背負ってきた。これからは国が負担を分かち合う」とし、「今回の新婚夫婦や若者の住居支援対策を今後5年間、計画通りに進めれば2022年には新婚夫婦のうち、住居の支援が必要な世帯を100%を支援することになるだろう」と説明した。
人の世に道は一つということはない 道は百も千も万もある(坂本龍馬)
人の世に道は一つということはない 道は百も千も万もある(坂本龍馬)
2018年7月11日、文科省は、学校復帰のみにこだわった従来の不登校対応を見直すため、「学校復帰」という文言が含まれた過去の通知をすべて見直す方針を明らかにした。通知が見直されれば、不登校対応の新たな方針が、全小中高校へ示されることになる。
文科省の「通知」とは、教育委員会を通してすべての小中高へ送付される行政文書のこと。「行政の意向」を現場に伝える手段となっている。これまで文科省は「学校復帰」の文言を含む通知を2003年から2016年8月にかけて4度、出していた。
その後、国会では不登校に関する初めての法律「教育機会確保法」が成立。2017年3月に策定された同法の基本指針では、同法とその付帯決議を根拠に「学校復帰のみ」にこだわらない新しい不登校対応が必要であることが明示された。なお、基本指針だけでなく新学習指導要領においても、新しい不登校対応の方針が示されている。
子育てや教育に対して思うのは、
その道はけして一つだけではないはずだということ。
過去、日本の経済成長を支えたのは
間違いなく、他の国にも負けなく
ある種の「”画一的”な教育システム」でした。
それは、皆が同じ教室で、同じ教科書を使って一斉に授業を聞き取るという仕組みです。
地域での義務教育を終えたその後は、
学力(ここでは偏差値)ごとに振り分けられて
高校・大学(その他、専門学校等)へ進学し、
その受験システムに適応できた人(学歴や学校名ごと)に
企業に振り分けられて行ったわけです。
このことを否定するつもりはありません。
しかし、いまこの画一的な教育システム(学校)が機能していないという
現状が問題視されているのが、不登校問題なのではないでしょうか。
不登校は、その児童生徒自身の問題ではなく、
ましては親だけの問題でもない。(中には養育困難な家庭もあることにはありますが)
一番は、時代の要求に適さなくなった学校側の問題であると考えています。
たとえば、
子どもに「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
と問われた時に、
今の時代は「よい大学に行き、よい会社に入るため」とは返答できません。
「じゃあなんで、長時間座らされて、つまらない授業を聞くという苦行を強いられなきゃいけないの」というような、子どもたちの問いに、
彼らが納得できるような答えを示せる大人は少ないのではないでしょうか。
今の子どもたちは、
戦後の経済発展とはまったく違う、将来展望を自ら開拓しなければいけない世代なのだと思います。
彼らがワクワクするようなモノ・ゴトは、
これまでの日本の目指した経済発展とは違ったカタチ(豊かさ)なのだとすると、
これまで通りの教育では噛み合わないのも当然なのだと思います。
今は「画一」から「多様」への転換点なのでしょう。
多様な教育のあり方を認め、
多様な進路や仕事を開拓するために
子どもたちと一緒に考え、創り上げられる可能性を秘めた時代だとも
いうことができますね!
どこで学ぶかだけでなく、何をまなぶか、を大切に
どこで学ぶかでだけでなく、何をまなぶか、を大切に
とある方が発せられていた言葉。
私たちは、
小学校から中学の義務教育を経て、
高校への進学や、人によっては大学や専門学校など
人生の前半の多くを「学ぶ」ことに費やしています。
そんな中で一旦立ち止まり「学び」の本質について考えて見たいと思わされる、
そんな言葉に出会いました。
この言葉の捉え方は、受け取る人により様々かと思いますが、
社会人の私にとって、「学び」は現在進行形の活動です。
そう、
もうすでに学校に行っていない私も、「学ぶ」ことはできます。
仕事に関することだけでなく、
家族関係に関すること、
政治・経済・世界など、広く社会に関することなどなど。
「学び」は、自分の視野を広げてくれます。
知識を得ることで、これまで見えていた風景が、また違ったものに変わります。
「学び」により、モノ・ゴトを相対化することができたとき、
自分や自分の立ち位置などが、改めてはっきりと、くっきりと、見えてくるのではないでしょうか。
そして、「学び」は学校の中にだけあるものではありません。
いつでも、どこででも「学ぶ」ことはできます。
大切なのは、どこで「学ぶ」かではなく、
なにを「学ぶ」のかなのだと、実感しています。